我が子は望まれて産まれた子供です。結婚した時から子供が欲しいねと話しており、生活が落ち着いてから計画的に子作りを行ってきて、授かった時には二人で飛んで喜んで記念ビデオまで撮ったぐらいです。
ですが、産まれてくるとなかなかどうしてこれが大変。産後うつとかマタニティブルーという言葉がありますが、夫婦二人とも子育てにまいってしまい、それ以上に、我が子をかわいいと思えない状態が続いていたのです。
どうやったら子供を愛せるようになったのか? それは自然に起きるのか? 私達の経験を綴ってみました。同じ悩みを抱えている方がいたら、何かの参考になれば幸いです。
この記事はこんな方におすすめ
- 今、自分の子に愛情を感じない方
- これから先、子供愛していけるか自信がない方
- 子供が産まれてからの生活の変化が気になる方
目次(タップすると開きます)
親の愛情は無償の愛ではないの?
よく、親は子に対して無償の愛を抱いていると言いいますよね。私たちも例に漏れず、自分の子供なのだから愛して当然だろうというメンタリティでずっといました。
しかし、産まれて来た子との生活を始めてみたら、どうもそれが違ったのです。
誓って言えますが、私達は子育てには精力的です。プレパパ活動からはじまり、自分で言うのもあれですが母親・父親ともにかなりの熱量で子育てに力を入れてきたと言えます。
しかし、我が子だから当然愛せるだろうと思っていたものの、どうもその感情が産まれてこなかったのです。
しかしどうにも、愛着がわかない。
特に母親は保育士の資格を持っていたし、幼稚園や保育園で働いていたので子供がいる生活には慣れたものです。だから当然我が子も同じように、いや、それ以上に、溺愛してしまうのではないかと心配をしていたほどでした。産まれてくる日を待ち遠しく感じながら愛おしく日に日に大きくなるお腹をさすっていたのですが、産まれるとその感情はどこかに消えてしまったのです。
別に我が子が特殊な状態で産まれてきたわけではありません。いたって健康な、いたって普通の赤子だ。醜いと思ったことはないし、そういう負の感情があるわけではないのです。
ただ純粋に、「愛」がわかない状態が続いたのです。
幸せそうに子育てをしている周りを見て、焦る
しかし世の中では私たちのような夫婦は特殊らしく、辺りを見渡せば「子育てが幸せすぎる」「毎日子供を見ていて飽きない」という声がある。あるいはそれは偏った見方なのかもしれないが、当時の私たちには自分らがあまりにも異端で、あまりにも許されざる存在なのではないかと怯えていました。
我が子はとにかく癇癪持ちで寝つきが悪く、最初の半年はとにかく寝不足が祟ったのもあるかもしれません。母親も父親も30分以上まとめて寝られたことが数えるほどしかないのではと思ってしまうぐらい、とにかく小まめに起きては我が子の世話をしていました。
子育ての疲れなんて本当に子供のかわいさで吹っ飛ぶよね〜なんて言われるとちょっとプレッシャーを感じていました・・・。
しかし、子供にそんなネガティブな気持ちを悟られては困ります。
我が子がモノを握れるようになった頃、「すごいね、いっぱい持って遊べるね!」と笑顔で語りかけていましたが、内心は無表情でした。
子供の成長も「そうか」程度にしか思えなくなり、「今日、つかまり立ちしたよ」という報告があってもパパに至っては「まぁ月齢的にそんな頃合いだね」と淡々とした、第三者的な感想しか出なくなったのです。
自分の子供に愛着が湧くには何ヶ月かかる?
どこかのネット記事で、「父親が子に愛着が湧くのは7ヶ月程度から」というものを読んで以来、父親は7ヶ月すれば愛着が湧くだろう、と自身に言い聞かせるようにしていました。
我が子をかわいいと思えないのって異常? 産まれてからどれぐらいで子供に愛着が湧く?
ですが、7ヶ月経っても我が子に愛着が湧くことはありませんでした。愛情ではなく、自分の子供なのだからしっかりと育て、幸せにしてやる義務があるという責任感から「親が取るべき行動」をひたすら取り子育てに邁進してきたのです。
何が我が子にとってベストなのかを常に考えていたと自信を持って母親・父親共に言えますが、それは愛ゆえではなく、ひとえにこの子を産んだからという責任感からきているものでした。
しかしそれはどうも健康的というか、建設的ではありません。結果として取る行動が違わなくても、その動機には、根底には、できれば愛情があって欲しいものです。
しかしいくら祈っても、愛情は湧いてこない。
子供に愛を感じた、転換点となった日
ある日、私たちは11ヶ月になる子供を近くの子供が遊べる広場に連れて行きました。
広場ではほかに同じ月齢程度の赤ちゃんがおり、めいめい好きなことをして遊んでいたのです。そこに、他の子のお姉さんと見られる、3〜4歳程度の女の子がいました。
我が子がボールを持って遊んでいると、その子は我が子の前に来て、ボールを取りました。まぁ、子供のやることだ、あの年齢だと「貸して」とかはできるはすだが、子供だしいいだろう。そう思っていた矢先、我が子はボールを奪い返そうとして手を伸ばした。
そして、その女の子は、我が子を突き飛ばして走り去っていったのです。
これは良くないと思い私たちは立ち上がって、我が子の元に行きました。当然泣いていた我が子を見て、私たちはひどい気分になりました。
別に女の子がやったことを強く責めるつもりはありません。子供のやることにいちいち目くじらを立てるうことはしません。
ですがこれはおそらく、我が子にとって初めて、他人の悪意を向けられた瞬間だったと思います。周りから守られて優しくされて育った子が、はじめてネガティブな感情によるネガティブな行為の対象となったのです。もちろん、10分もすれば泣き止んでケロリとするのが子供の切り替えの速さですが、私たちの心の奥深くに何か傷がついたような気持ちがしました。
しばらくして我が子は泣き止み、ひとしきり遊んでから帰路に着きました。
そして夜子供を寝かしつけたあと、ふと出た会話が
「うちの子がとても可哀想だった」という内容でした。
当然の感想ですが、その気持ちは決して客観的なものではなく、主観的なものだったと深く感じます。
私たちは自分の子供に対して負の感情をぶつけられたことに憤り、その結果、子供に対して愛情があることに気づいたのです。その場その瞬間に愛情が芽生えたとは言い難いですが、それに近しいものが湧いて出てきたのかもしれないません。
結果的には、子供に愛情が湧くまで、夫婦ともに11ヶ月かかった
愛情が芽生えるまでに11ヶ月かかるというのは、相当に長いとは思います。産まれたその日から子供に対する愛に湧き溢れている人がほとんどでしょう。
だが私たちは産後の肉体的・精神的大変さもあって、子育てを正しくやるということに強い意気地を感じ向かっていったことからなかなか長い期間を「責任感」による育児に費やしていました。
ただ言えることは、責任感による育児も決して間違っていないということです。子供の事を思い、良き人生を歩めるように全力を尽くすのは、たとえ責任によるものであってもそれは愛情と言えるのかもしれないですね。
産まれてきてしまったのだから、と言えば身もふたもないかもしれませんが、赤の他人にそれほど尽くせる事はなかなかできないだろうし、そこに少なからずの愛情があるのでしょう。
とはいえ、それに気づかないのです。
あまりに大変で、憔悴して、すり減って、やるべき事をやるという意識しかない。
だが一度我が子が傷つくのを見ると、自分にも深く、もしかすると子供以上に傷が付くことに気づく。その傷つきの裏面に愛情があるのかもしれない。少なくとも私たちはそうでした。
だから、今責任感で子育てをしている方も心配しないでと言いたいです。愛情を持って接することと、責任感を持って接することは、動機が違えと結果は変わらないかもしれません。
やるべき子育てをきちんとやれば、結果はついてくるし、愛情も少しずつ(そしてあるいは気づかないうちに)育まれていくでしょう。
そしてやがて我が子も愛情を持って自分たちに接してくれるようになる。そういう交流ができる程度に成長がすると、フィードバックを子供から得られるが故に、愛情に愛情で返せるようになるでしょう。
だから、最初から何も心配なんていらなかったのかもしれませんね。